なぜこの南宋書院と湧島義博にこだわるのかといえば、両者は単なる左翼、及び左翼出版社ではなく、明治四十五年に鳥取で創刊された文芸誌『水脈(みお)』に始まる「鳥取文壇」を背景としているからだ。『水脈』の主要同人は後の白井喬二、橋浦泰雄、野村愛正などで、彼らが上京した後、大正三年に新たに創刊されたのが『我等』である。これは鳥取東部の大半の文芸関係者たちが集まり、湧島も、後にその妻となる田中古代子も尾崎翠もその同人だった。同人たちは雑誌を発行するだけでなく、文化講演会、絵画展覧会、近代劇脚本朗読試演会を開催し、鳥取の文化を活性化させた。それこそこの「水脈」が東京に移され、始められたのが南宋書院だとも見なせるからだ。鳥取を背景とする近代出版社は南宋書院だけではないだろうか。 湧島は明治三十年に鳥取の洋服商の長男として生まれ、『我等』同人を経て、大正五年に上海の東亜同文書院に入り、翌年中退して上京する。また東京外語学校の夜間部でロシア語を学び、長与善郎の書生になったことから、『白樺』の編集に参加し、九年には叢文閣に入社している。
なぜこの南宋書院と湧島義博にこだわるのかといえば、両者は単なる左翼、及び左翼出版社ではなく、明治四十五年に鳥取で創刊された文芸誌『水脈(みお)』に始まる「鳥取文壇」を背景としているからだ。『水脈』の主要同人は後の白井喬二、橋浦泰雄、野村愛正などで、彼らが上京した後、大正三年に新たに創刊されたのが『我等』である。これは鳥取東部の大半の文芸関係者たちが集まり、湧島も、後にその妻となる田中古代子も尾崎翠もその同人だった。同人たちは雑誌を発行するだけでなく、文化講演会、絵画展覧会、近代劇脚本朗読試演会を開催し、鳥取の文化を活性化させた。それこそこの「水脈」が東京に移され、始められたのが南宋書院だとも見なせるからだ。鳥取を背景とする近代出版社は南宋書院だけではないだろうか。 湧島は明治三十年に鳥取の洋服商の長男として生まれ、『我等』同人を経て、大正五年に上海の東亜同文書院に入り、翌年中退して上京する。また東京外語学校の夜間部でロシア語を学び、長与善郎の書生になったことから、『白樺』の編集に参加し、九年には叢文閣に入社している。

1年前に投稿されました リアクション

リアクション:

Tumblrについて:

フォロー: