この清水三三と同じく、山梨に生れ、中国において他民族との共存を求めた人物がもう一人。1901(明治34)年上海東亜同文書院初代院長となった根津一(ねづ・はじめ)である。根津の業績は、多くの日本人学生が中国語とその文化を学んだ東亜同文書院の名と共に、知る人が多いが、清水三三は敗戦により帰国し、生地山梨に戻り、長坂の蕪地区に入植、戦後を開拓民として生き、今は知る人も少ない。
この清水三三と同じく、山梨に生れ、中国において他民族との共存を求めた人物がもう一人。1901(明治34)年上海東亜同文書院初代院長となった根津一(ねづ・はじめ)である。根津の業績は、多くの日本人学生が中国語とその文化を学んだ東亜同文書院の名と共に、知る人が多いが、清水三三は敗戦により帰国し、生地山梨に戻り、長坂の蕪地区に入植、戦後を開拓民として生き、今は知る人も少ない。

1年前に投稿されました

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